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旭川地方裁判所 昭和41年(ワ)272号 判決 1968年6月11日

原告

阿部アキイ

ほか四名

被告

名知幸男

ほか三名

主文

一、被告名知幸男、同日本通運株式会社は、それぞれ原告阿部アキイに対して一五万四〇〇六円、原告渡辺紀代子、同阿部俊雄、同野呂紀恵子、同阿部美智恵に対して各六万二〇〇三円、ならびに右各金員に対する被告名知幸男は昭和三九年一〇月一三日から、被告日本通運株式会社は同年九月一日から各完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二、原告の被告名知幸男、同日本通運株式会社に対するその余の請求ならびに被告森祥一、同鷲塚三郎に対する請求を、いずれも棄却する。

三、訴訟費用中、原告と被告名知幸男、同日本通運株式会社との間で生じた分はこれを六分し、その五を原告ら、その一を右被告らの負担とし、原告らと被告森祥一、同鷲塚三郎との間で生じた分は原告らの負担とする。

四、この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一、請求の趣旨とこれに対する答弁

一、原告

1  被告らは各自、原告阿部アキイに対し八七万三七〇五円、原告渡辺紀代子、阿部俊雄、野呂紀恵子、阿部美智恵に対しそれぞれ三八万六八五二円五〇銭、ならびに右各金員に対する訴状送達の翌日から完済まで年五分の金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決ならびに仮執行の宣言。

二、被告名知、森、鷲塚

請求棄却の判決。

三、被告日本通運株式会社(以下「被告日本通運」という。)

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二、請求原因

一、1 昭和三六年九月二一日午後七時過頃、名寄市大通南五丁目先の南北の通称大通(一級国道四〇号線)と東西の通称南五丁目道路とが直交する交差点において、訴外亡阿部俊吉は第二種原動機付自転車を運転して右大通を南進し、右側の方向指示器を操作して時速約一五キロメートルで同交差点にさしかかつたところ、被告名知は補導四輪馬車に石炭を積載して、御者台の設備がないのに、その荷台に乗りながら同馬車を御し、右南五丁目道路を法定の除外事由がないのに道路の中央から右の部分(以下「右側部分」という。)を西進して同交差点にさしかかり、右馬車の左側中央部付近と右原付自転車が接触して俊吉は路上に転倒し、頭部に負傷した。

2 右事故は、被告名知が御者台の設備のない馬車の荷台に乗車したり、法定の除外事由がないのに道路の右側部分を通行してはならず、かつ俊吉の原付自転車が右折し終るのを待つて進行すべき注意義務があるのにかかわらず、右注意義務に違反して、馬車の荷台に乗車し、道路の右側部分を通行し、俊吉の原付自転車は馬車が交差点に入る前に右折し終るものと軽信して進行した過失により発生した。

3 俊吉は、前記頭部負傷のため直ちに同市西三条南三丁目名寄共立病院に入院し、医師である被告森の診療を受け、顔面局部治療、全身麻酔注射を受けたが、翌二二日午前一〇時四〇分頃同病院で死亡した。

4 被告森は、俊吉が頭部傷害を受けた重傷者であるから、レントゲン撮影をして傷害の部位程度を確認し、宿直看護婦を付添わせて時々容態経過を観察させ、他の医師に立会診断させ、輸血をする等の必要な処置をとり、科学的で且つ適正な診療(医療法一条一項)をなすべき注意義務があるのに、過失によりこれをしなかつた。

5 俊吉の死亡は、被告名知の前記過失ならびに被告森の前記過失のいずれにより発生したか知ることができない。

二、被告日本通運は、通運事業をする会社で、被告名知はその名寄支店において馬夫として雇傭され、同支店の取扱う貨物の集荷、配達業務に従事していた者で、被告名知の前記不法行為は被告日本通運の貨物配達業務中の行為である。

仮に被告名知が被告日本通運に雇傭されていなかつたとしても、被告名知は被告日本通運から直接に監督命令を受けて貨物の集配を請負つていた者である。

三、被告鷲塚は前記病院の開設者で、被告森を雇傭していた者であるが、被告森の前記不法行為は前記病院の業務執行中の行為である。

四、よつて、被告名知、被告森は、それぞれ民法七〇九条、七一〇条、七一九条一項により、被告日本通運、被告鷲塚は、それぞれ民法七一五条第一項本文により、俊吉の死亡により発生した損害を賠償すべき義務がある。

五、亡俊吉の受けた損害(逸失利益)

(一)  俊吉は当時四九才三月の健康な男子で平均余命二二年(厚生省第九回生命表)であつたが、次の得べかりし利益を失つた。

すなわち、(イ)俊吉は名寄食肉協同組合に事務員として勤務し給与月額一万五〇〇〇円を得ていたが、停年六〇才まで勤務ができたはずで、右給与月額は毎年一、〇〇〇円づつ定期昇給をし、右給与のほかに毎年夏期には給与月額の四分の三、冬期には給与月額と同額の各手当を受けていたので、死亡の翌年である昭和三七年から停年に達する昭和四七年までの間に別表一記載のとおり合計三一七万六二五〇円の給与を得ることができたはずであり、(ロ)前記勤務のほかに小豆等の耕作や養豚をし、年額一九万五〇〇〇円の収入を得ていたので、昭和三七年以後二一年間右農業養豚ができたはずであるから合計四〇九万五〇〇〇円の収入を得ることができたはずであり、(ハ)元海軍軍人として恩給年額六万円を受けていたので、死亡後は遺族扶助料として年額三万円の支給しかないため、昭和三七年以後二一年間差引年額三万円合計六三万円の支給減となつた。ところで、俊吉の生活費は別表二記載のとおり年額九万四九〇〇円であるので昭和三七年以後二一年間の見積額は合計一九九万二九〇〇円である。そこで、前記(イ)三一七万六二五〇円、(ロ)四〇九万五〇〇〇円、(ハ)六三万円の合計七九〇万一二五〇円から右一九九万二九〇〇円を控除すると純損害額は五九〇万八三五〇円となるところ、ホフマン式計算法により右金員から年五分の中間利息を控除して現在額を算出すると二八八万二一二一円となる。

ところで、俊吉は労働者災害補償保険金五一万八四七七円の給付を受けたので、更にこれを控除すると、純損害額残は二三六万三六四四円である。

(二)  原告アキイは俊吉の妻、その他の原告らは子であり、原告アキイは相続分六分の二をもつて、その他の原告らは各相続分六分の一をもつて俊吉を共同相続したので、原告アキイは前記(一)の二三六万三六四四円の損害賠償請求権の六分の二の七八万七八八一円を、その他の原告らは各六分の一の三九万三九四〇円を承継した。

六、原告らの受けた損害(慰謝料)

原告アキイは、旧海軍軍人で戦後名寄市で帰農した精励格動の夫亡俊吉とともに、農業に従事するほか助産婦をして家計を立て、子女の成長と教育を目的として生活をしてきたところ、俊吉が昭和三六年四月から前記協同組合職員となり、養豚の副収入を得るようになり、ようやく生活が安定したときに、突如俊吉を失つたもので、これによる精神的苦痛に対する慰謝料として二〇万円が相当である。

その他の原告らは、父俊吉を失つたことによる精神的苦痛に対する慰謝料として各五万円が相当である。

七、よつて、原告らは被告らに対し次の金員を各自支払うべきことを求める。

(一)  原告アキイ

1 前記五の(二)の七八万七八八一円の内六七万三七〇五円と前記六の二〇万円との合計八七万三七〇五円、

2 右金員に対する訴状送達の翌日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金。

(二)  その他の原告ら

1 各前記五の(二)の三九万三九四〇円の内三三万六八五二円五〇銭と前記六の五万円との合計三八万六八五二円五〇銭、

2 各右金員に対する前同遅延損害金。

第三、請求原因に対する被告らの答弁

一、被告名知

請求原因一の1の事実中、原告主張の日時場所において、訴外亡阿部俊吉が第二種原動機付自転車を運転して大通を南進し、被告名知が補導四輪馬車を御して南五丁目道路を西進してきたところ、両車が接触して俊吉が路上に転倒し、頭部に負傷したことは認める。

請求原因一の2の事実は否認する。

請求原因一の3の事実中、俊吉が原告主張のとおり入院し、同主張の頃入院先で死亡したことは認める。

請求原因一の4の事実は不知。

請求原因五の(一)の事実を争い、同(二)の事実中、原告アキイが俊吉の妻、その他の原告らが俊吉の子であることは認める。

請求原因六の事実は不知。

二、被告日本通運

請求原因一の1から4まで、同五の(二)、同六の各事実は不知、同二、同五の(一)の各事実は否認する。

三、被告森

請求原因一の1、2、同五の(一)、(二)、同六の各事実は不知。

請求原因一の3の事実中、俊吉が原告主張のとおり入院し、医師である被告森の診療を受け、原告主張の頃名寄共立病院で死亡したことは認める。

請求原因一の4の事実中、俊吉が頭部傷害を受けた重傷者であつたことは認めるが、その他の事実は否認する。

四、被告鷲塚

請求原因三の事実中、被告鷲塚が名寄共立病院の開設者であること、同被告が被告森を雇傭していたことは認める。

その他の請求原因事実に対する答弁は被告森と同じ。

第四、証拠 〔略〕

理由

一、被告名知に対する関係では、昭和三六年九月二一日午後七時過頃名寄市大通南五丁目先の南北の通称大通(一級国道四〇号線)と東西の南五丁目道路とが直交する交差点において、訴外亡阿部俊吉が第二種原動機付自転車を運転して右大通を南進し、被告名知が補導四輪馬車を御して右南五丁目道路を西進し、それぞれ同交差点にさしかかつたが、右馬車と右原付自転車が接触して俊吉が道路上に転倒し、頭部に負傷したことは、当事者間に争いがなく、同事実は、その他の被告らに対する関係では、〔証拠略〕を総合すると、これを認めることができる。

二、そこで右事故の発生につき被告名知の過失の有無を検討する。前示事実、〔証拠略〕を総合すると、次のとおり認められる。

(1)  前記交差点は、交通整理の行なわれていない交差点である。通称大通は、歩道車道の区別があり、車道幅員二四メートル、内中央の一四メートルのみコンクリート舗装の白線のセンターラインの表示のある平坦な道路である。通称南五丁目道路(市道)は、同交差点の東方では、歩道車道の区別のない幅員二五・五メートル、ただし大道と交わる個所においては大通の歩道と約一九・二メートル(北側の幅〇・五メートルの溝とも)で接する砂利敷の中央部分が盛上がつた道路で、大通の車道と接する直前から大通のコンクリート舗装部分にかけて約三度の下り勾配をなしており、同交差点の西方は歩道車道の区別があり、車道幅員一三メートル(両側の幅〇・五メートルの溝とも)のコンクリート舗装の白線ならびに鉄鋲によるセンターラインの表示のある平坦な道路である。同交差点は、東方を除く他の三方に、いずれも横断歩道がある。

(2)  本件事故当時は、晴天で、前記各道路は乾燥し、日没後のうす暗かりの状況であつたが、大通の車道両側には約二五メートル間隔で鈴蘭灯が、前記交差点の西側には南五丁目道路上に商店街の水銀灯アーチが各設置されているほか、同交差点付近は商店街であるため広告灯、屋内灯があり、同交差点においては本件事故の時刻頃でも前方約五〇メートルの距離にある交通上の障害物を識別できる程度の明るさであり、前記各道路は、いずれも直線であるため見通しが良い。

(3)  被告名知が御していた補導四輪馬車は、その車体の長さ四・六メートル、幅一・八メートル、高さ一・九メートル、馬の梶棒の長さ二・三メートルで、御者台等の乗車装置、前照灯、尾灯の設備はなく、制動装置は破損し、その機能が低下していた。被告名知は、右馬車の荷台に粉炭約三トンを盛上げて積載し、荷台の前部の右側に腰をかけ、手綱を持つて馬を御しながら南五丁目道路を西進して前記交差点にさしかかつたのであるが、右道路の左側部分を通行すると馬車が傾くこと、平素同所では右側部分を通行しても馬車の場合は自動車の場合のように厳格に交通取締を受けたり注意されたりしなかつたため通常右側部分を通行していたこと、本件事故当時対向車がなかつたことから、右側部分の道路中央寄り付近の比較的平坦な個所を直進していた。

(4)  亡俊吉は、前照灯をつけた第二種原動機付自転車を運転して大通の左側部分のコンクリート舗装部分を南進して来たが、前記交差点の北約一〇〇メートルの菱雄石炭店前付近において、コンクリート舗装部分の左側端付近を自転車としては早めの速度で先行していた秋島義勝の運転する自転車の右側を、同自転車に接触するばかりに近寄り、同自転車をコンクリート舗装部分の左側端まで数十センチメートル程退避するを余儀なくさせながら追越した。この頃右原付自転車の時速は制限時速四〇キロメートルを超えていた。秋島は右追越をされる直前、すでに被告名知の馬車が前記交差点に入つてくるのを確認していた。俊吉は、交差点手前約三〇メートルの山田新聞店前付近で右側ウインカーの点滅を開始するとともに減速はしたが、交差点に入つてからも直ちに停止できるような速度まで減速せず、交差点の中心の直ぐ手前の左側で被告名知の馬車に接触するまで直進して右折を開始しておらず、交差点の直近の内側を進行(内小回り)していなかつた。

(5)  被告名知は、馬車の荷台に石炭を満載し、かつ路面が下り勾配であるため、並足よりも、やや早い速度で前記交差点に入つて直進を続け、馬の頭部が大通のコンクリート舗装部分にさしかかつた頃、同被告の腰を掛けていた荷台の位置から二、三十メートルの地点を、右折の合図をしながら南進し、交差点に入つて来ようとする俊吉の原付自転車を始めて発見し、接触の危険を感じ急いで手綱を強く引いて馬を停止させようとしたが、すべつて直ちに停止できず、三メートル余り直進した地点で右原付自転車が馬の右前脚に触れ、俊吉の頭部が馬の首に掛けた「わらび型」馬具に接触し、俊吉は路上に転倒し、そのため頭部挫傷、頭蓋内出血の傷害を受けた。

以上のとおり認められ、〔証拠略〕中これに反する部分は信用せず、ほかにこれを左右する証拠はない。

以上の事実によれば、被告名知につき次の過失が認められる。

被告名知は、補導四輪馬車(道路交通法にいう軽車両)の運転者として、(イ)法定の除外事由がないのに道路の右側部分を通行してはならず(道路交通法一七条三項、四項)、(ロ)交差点を横断する場合には、その交差点を通行する車両等の交通状況を確認してから交差点に入るべく、(ハ)馬車の荷台に重い荷物を満載し、下り勾配の道路から交差点に入る場合には、速度の出過ぎないようブレーキの操作をし、或は、あらかじめ手綱を強く引く等して馬を制御しながら徐行し、(ニ)乗車設備のない場所に乗車して馬車を運転してはならない(同法五五条一項)注意義務があるのにかかわらず、右注意義務に違反して、道路の右側部分を直進して交差点を横断しようとし、交差点に入つてから接触の直前まで右側方から右折の合図をしながら交差点に入ろうとしている俊吉の原付自転車を発見することができず、かつ、石炭約三トンを積んで下り勾配の道路から出たのに慢然荷台に腰を掛け、あらかじめブレーキをかける等して馬を制御しながら進行しなかつたため直ちに停止することができなかつた結果、前記事故が発生したのであるから、被告名知につき過失があつた。

三、しかし、亡俊吉についても前記事故の発生につき次の過失が認められる。

亡俊吉は、第二種原動機付自転車の運転者として、交通整理の行なわれていない交差点を右折する場合、(イ)まず、その交差点を横断する車両等の交通状況を確認してから交差点に入るべく、(ロ)先に交差点に入つた車両等のあるときは、その車両等の進行を妨げてはならず(道路交通法三五条一項)、(ハ)交差点の中心の直近の内側を徐行しなければならない(同法三四条二項)注意義務があるのにかかわらず、右注意事務に違反して、被告名知の馬車と接触する時またはその直前まで先に交差点に入つていた右馬車の進行していることを発見できず、交差点を徐行して、かつ内小回りをすることなく、外小回りをしようとし、ハンドル、ブレーキの操作を一切しなかつたため前記事故が発生したといえるから、亡俊吉にも過失がある。

四、そして、前記被告名知の過失と亡俊吉の過失とを対比すると、双方の過失の度合は、三対七であると認めるのが相当である。

五、被告名知、森、鷲塚に対する関係では、前記頭部負傷のため俊吉が直ちに同市西三条南三丁目名寄共立病院に入院したが翌二二日午前一〇時四〇分頃同病院で死亡したことは当事者間に争いがなく、右事実は、被告日本通運に対する関係では、〔証拠略〕を総合して、これを認めることができる。右入院中に医師である被告森が亡俊吉を診療したことは、被告森、鷲塚に対する関係では当事者間に争いがなく、被告名知、日本通運に対する関係では右本人尋問の結果により、これを認めることができる。

六、そこで俊吉の死亡につき被告森の診療上の過失の有無を検討する。

前項記載事実、〔証拠略〕を総合すると(但し、甲第二号証、乙第二号証、右証言ならびに各本人尋問の結果中、後記信用しない部分を除く。)、前記事故直後の午後七時三〇分頃、俊吉は名寄共立病院玄関前まで自動車で運ばれ、担架で外科診料室に入り、直ちに同病院の当直医師である前記被告森が俊吉を診療し、当直の見習看護婦星加代子、岡本征子の両名が診療の補助をしたこと、俊吉の前記頭部挫傷は、(1)左上眼瞼部の長さ約五センチメートル、深さほぼ骨膜に達する開放創、(2)前頭部鶏卵大血腫、(3)後頭部鵞卵大血腫からなるものであり、右入院時の脈搏、体温は正常であつたが、歩行不能で、ものも云えずに呻き興奮した状態で、意識は多少はあるという程度であつたが、被告森は、この頃は俊吉が死亡するかも知れぬと予測していなかつたこと、被告森は俊吉に対し全身麻酔静脈注射をし、出血中の右開放創を消毒のうえ八針縫合する手術をしたが、入院から手術完了までの所要時間は少くとも一時間であつたこと、その後俊吉は麻酔状態のまま八人相部屋の病室に移されたが、被告森は前記見習看護婦らに時々俊吉を見回るよう指示したので、右看護婦らは時々俊吉を見回り、又、同被告の指示により何回か止血剤注射をしたこと、右入院の頃原告紀恵子(当時高校生)が病院に来て俊吉の付添をし、間もなく原告俊雄(当時高校生)が交替して病室で付添をしていたこと、同夜一二時過頃原告アキイが病院に来たが被告森や前記見習看護婦らは就寝していたこと、原告アキイは助産婦であり、助産婦として医学知識、重症患者付添の経験を有していたが、その頃俊吉が昏睡状態特有のいびきをかき喉に痰がつかえるような状態であつたので、俊吉の容態を軽視できない考え、被告森を起こし同被告に対し、名寄市立病院の外科専門の菊地医師の対診を求め、輸血を求めたりしたが、被告森はその必要を認めず、その処置を執らなかつたこと、原告アキイは病院から新生児用カテーテルをかりて俊吉の痰をとり、氷枕の氷を取替え、深夜自宅から湯たんぽを取寄せて冷えた足をあたためる等して夜通しで俊吉の付添看護を尽したこと、被告森はその後翌朝八時頃の回診時まで俊吉の病室に来なかつたこと、ところが間もなく脳内出血のため容態が急激に悪化し、脈搏、体温は急上昇し、午前一〇時頃被告森がリンゲル注射、輸血等を試みたが既に血管が萎縮して注入が全く不能で、遂に午前一〇時四〇分頃死亡したこと、被告森は俊吉の入院から容態急変までの間に、頭部レントゲン撮影腰椎穿刺、血圧測定、酸素吸入、輸血の処置を執らなかつたことが認められ、〔証拠略〕中これに反する部分は信用せず、ほかにこれを左右する証拠はない。

右認定のとおり被告森は、俊吉の診療上、原告らが主張し或は原告アキイが本人尋問(第一回)で指摘するように、容態の急変する前に、当初から脳内出血死を予測せず、頭部のレントゲン撮影、腰椎穿刺、血圧測定、酸素吸入、輸血、外科専門医の対診、看護婦の常時付添観察の処置を執らず、全身麻酔静脈注射をなしたのであるが、これらの事実が俊吉の脳内出血死の原因となつたと断定するに足りる証拠はない。〔証拠略〕によると、脳内出血の場合には絶対安静が必要であり、名寄市には脳外科専門医師は居らず、その手術設備も完備せず、当時としては札幌市まで自動車で悪路のある遠距離を輸送したうえ脳外科手術をするほかはなく、絶対安静を必要とする脳内出血の場合、事故直後に、このような輸送をすることは、かえつて危険で避けるべきであり、むしろ絶対安静を保ちながら予後を観測していくより方法のなかつたことが窺われるのである。したがつて、俊吉の死亡につき、原告アキイらとしては被告森が親切な態度で出来るかぎりの手を尽くすべきであつたとの見解を有するのは肉親として当然のことと理解されるところではあるけれども、法律上は被告森に診療上の過失があつたとする原告ら主張は採用することができない。

よつて、被告森に過失のない以上、原告らの被告森、鷲塚に対する本訴請求は、その余の判断をするまでもなく、理由がないから、棄却すべきである。

七、そこで、俊吉の死亡は被告森の診療とは関係なく被告名知と亡俊吉の過失のみに基因して発生したものというべきであり、被告名知は本件事故により生じた損害を賠償すべき責任がある。

八、つぎに被告日本通運の使用者責任の有無を検討する。

〔証拠略〕を総合すると、被告日本通運は通運事業をする会社であること、当時被告日本通運名寄支店で馬車による貨物の集配に従事していた被告名知ら約一〇名の者は、それぞれ馬と馬車とを所有し、毎日各自宅から同支店まで馬車を曳いて来て同支店取扱貨物の集配をしていたが、いずれも被告日本通運とは雇傭契約がなく、対価は歩合により毎月二〇日に一ケ月分をまとめて支払うとの約で貨物集配の下請をしていたものであること、前記支店では右金員を「傭車費」または「下請費」の名目で支出していたこと、そして前記の馬車を「傭馬」、被告名知らを「馬夫」、「馬車追い」、「馬追い」と呼称して、被告日本通運が雇傭し貨車の積卸をさせていた俗称「台車積み」の労務者を「作業員」と呼称するのと区別していたこと、しかし、馬夫が前記支店で待機、休憩する場所は作業員と同じ作業員詰所であり、同支店内の売店で、被告日本通運のマークの入つた作業帽、作業服を購入することができ、平素馬車による貨物集配のときは、よくこれを着用していたこと、本件事故当時、被告名知は他の馬夫らがするように、自己の好みにより馬具屋に作らせた直径一〇センチメートル余りの被告日本通運のマークを左右両側につけた「ぷらかけ」を馬につけていたこと、日々の貨物集配は前記馬夫ら約一〇名の者の仲間の一人を「組頭」とし、組頭が前記支店の所管職員の指示を受け、これを馬夫全員に公平になるように割当て、馬夫らは被告日本通運がみずから集配する場合と同様に被告日本通運の伝票を持参して集配先に貨物の集配に行つていたこと、被告名知は殆ど毎日右集配に従事し、極く稀に仕事のない日に自家の仕事をしていたに過ぎないこと、本件事故は、前記支店から市内配達先まで石炭の配達中に発生したことが認められ、〔証拠略〕中右認定に反する部分は信用し難く、ほかに右認定に反する証拠はない。

右事実によれば、被告名知は被告日本通運に雇傭契約により雇傭されていた者ではないけれども、結局は被告日本通運に専属してその指揮監督下に貨物集配の下請をしていた者であり、被告日本通運は被告名知の使用者と解するのが相当であるところ、本件事故は被告日本通運の事業の執行中に発生したといえるから、被告日本通運は被告名知が亡俊吉ないし原告らに加えた損害を賠償すべき責任がある。

九、(一) 亡俊吉の受けた損害(逸失利益)について検討する。

(イ)  給与収入

〔証拠略〕を総合すると、亡俊吉は明治四五年六月一七日生(死亡当時四九才)の健康な男子で終戦前は海軍職業軍人をしていたこと、死亡当時名寄市西一条南六丁目名寄食肉協同組合に事務員として勤務し、一ケ月一万五〇〇〇円の給与収入があつたこと、死亡の月である昭和三六年九月の給与は生前に同月三〇日分まで支給を受けていたこと、右勤務について停年の定めはなかつたことが認められる。しかし、原告ら主張の将来の昇給、夏期および冬期手当の支給については右本人尋問の結果のみからは、それが確実なものであることを認めることができず、ほかにこれを認めるに足りる証拠は原告らの何ら提出しないところである。そして、原告の平均余命は、厚生大臣官房統計調査部作成第一〇回生命表によると二三・二一年であるところ、原告の健康状態、右職種の性質から考えると俊吉は六〇才に達する月の前月中まで本件事故時以後一二八ケ月にわたり右稼働が可能であつたと認めるのが相当である。そこで右一二八ケ月間の収入につきホフマン式計算法により法定利率年五分による単利年金現価総額を算定すると(月別法定利率による単利年金現価総額表による。)、一五三万六一九二円となる。ただし、亡俊吉は死亡の月昭和三六年九月につき死亡後の同月二三日から三〇日までの八日間分に相当する四〇〇〇円の支給を生前に受けていたので、これを右金員から控除すると、差引一五三万二一九二円となる。

(ロ)  農業等副収入

〔証拠略〕によれば、俊吉は前記勤務のかたわら、朝夕、土日曜日に原告アキイら家族とともに小豆、牧草等の耕作、養豚をし副収入のあつたこと、<1>小豆は年産すくなくとも一二俵を収穫し、その売上高六万円から経費一万円を差引き純収入五万円を得ていたこと、<2>牧草は約一町歩から年収すくなくとも二万五〇〇〇円を得ていたこと、<3>養豚は仔豚とも約二〇頭により一ケ月に約二〇貫目の肉豚一頭を出荷する計画を有していたことが認められ、これを覆えすに足りる証拠はない。右本人尋問では、養豚収入は右肉豚一頭の売上高が約一万円で経費は殆ど不要であつたから、年収すくなくとも一二万円を得るかのようにいうのであるが、これは俊吉死亡当時の養豚の具体的な状態に基づく収支の結果をいうものではないから、その年収額認定の資料としては不充分なものであり、ほかにこれを認めるに足りる証拠はない。しかし、右規模の養豚であれば、俊吉の死亡当時すくなくとも右本人尋問にいう一二万円の半額である六万円の純収入はあつたと認めるのが相当である。したがつて、右副収入の年額は、<1>五万円、<2>二万五〇〇〇円、<3>六万円の合計一三万五〇〇〇円であつたといえる。

そして、右副収入を得るための全家族の労働のうち俊吉の労働の占める割合は、前記本人尋問の結果によれば、約七割であつたと認めるのが相当であるから、右一三万五〇〇〇円の七割に相当する九万四五〇〇円が亡俊吉の副収入であつたというべきであるところ、俊吉の健康状態、右労働の内容から考えると俊吉は六五才に達するまで(昭和五二年六月一六日まで)、すなわち本件事故時以後一五年にわたり右稼働が可能であつたと認めるのが相当である。そこで右一五年間の収入につきホフマン式計算法により法定利率年五分による単利年金現価総額を算定すると一〇三万七六八八円となる。

(ハ)  恩給収入

〔証拠略〕を総合すると、俊吉は死亡当時軍人恩給年額すくなくとも六万円の支給を受けていたが、死亡により妻である原告アキイに対し、扶助料が支給されることになり、その昭和六一年七月までの支給年額が三万八九六七円であることが認められ、右差額は二万一〇三三円である。したがつて俊吉の平均余命二三年間の右差額につきホフマン式計算法による法定利率年五分による単利年金現価総額を算定すると三一万六四四五円となる。

以上の収入に対応する俊吉の生活費につき、原告らは別表二記載のとおり年額九万四九〇〇円であると主張し、原告アキイは本人尋問(第二回)において右主張のとおりの内訳であるというのであるが、右本人尋問の結果は、にわかに採用し難い。しかし、原告ら主張の右生活費年額そのものは、前示俊吉の職業収入等と対比して不相当に低額であるとも認められないので、これにより俊吉の生活費を算出するのが相当であると解せられる。そこで、前示二三年間の生活費につき、前示収入と同様ホフマン式計算法により法定利率年五分による単利年金現価総額を算定すると一四二万七七八七円となり、これを前記(イ)給与収入一五三万二一九二円、(ロ)副収入一〇三万七六八八円、(ハ)恩給収入三一万六四四五円の合計二八八万六三二五円から控除すると一四五万八五三八円となるので、同金額が、もし俊吉が本件事故にあわなければ存命中に得ることの出来た純収入相当額といえる。

そして、原告らは右得べかりし純収入より、労働者災害補償保険支給金五一万八四七七円を控除して請求するので、これを控除すると差引九四万〇〇六一円となるところ、亡俊吉に前示過失があるから、これを斟酌するときは、被告名知、日本通運に対して賠償を請求できる損害は右九四万〇〇六一円の内二八万二〇一八円とするのを相当とする。

(二) 原告アキイが亡俊吉の妻、その他の原告らが俊吉の子であることは、被告名知に対する関係では当事者間に争いがなく、被告日本通運に対する関係では原告アキイ本人尋問(第二回)の結果によりこれを認めることができる。右事実によれば、特段の事情のない限り、原告らが原告ら主張の相続分をもつて俊吉を共同相続したと認めるのが相当であるところ、右特段の事情の存在を認め得る証拠はない。

したがつて、右相続により、前記亡俊吉の損害賠償請求権二八万二〇一八円につき原告アキイは内九万四〇〇六円を、その他の原告らは各四万七〇〇三円をそれぞれ承継取得したと認められる。

一〇、原告らの受けた損害(慰謝料)について検討する。

〔証拠略〕を総合すると、原告アキイ(大正五年七月一九日生)は昭和九年助産婦となり、昭和一五年海軍下士官である亡俊吉と婚姻、昭和二一年から名寄市で助産婦をするかたわら夫俊吉の農業を扶け、俊吉とともに後記四人の子女の成長教育に専念してきたこと、その他の原告らは本件事故当時、いずれも高校中学校に在学していたが、現在、原告紀代子(長女、昭和一五年一二月一三日生)は婚姻し宮城県下で看護婦として保健所に勤め、原告俊雄(長男、昭和一七年八月二六日生)は大学を経て埼玉県下で国鉄に勤め、原告紀恵子(二女、昭和一九年九月二五日生)は高校を卒え婚姻し東京都でクリーニング店に勤め、原告美智恵(三女、昭和二二年七月三〇日生)は仙台市にある福祉大学に在学中であることが認められる。

右事実のほか、前示本件事故の態様、被告名知幸男本人尋問(第一回)の結果により認められる被告名知の父が原告らに弔慰金一万円を贈つたこと、その他諸般の事情を総合し、更に亡俊吉の前示過失を斟酌すると、原告らは俊吉の死亡により多大の精神的苦痛を受けたこと、およびこれに対する慰謝料としては原告アキイは六万円、その他の原告らは各一万五〇〇〇円の支払を受けるのが相当である。

一一、以上の次第であるから、原告らの被告名知、日本通運に対する請求は、

(一)  原告アキイにつき、

1  亡俊吉の逸失利益のうち九万四〇〇六円

2  同原告の慰謝料六万円

3  右合計一五万四〇〇六円に対する被告名知は訴状送達の翌日であることが記録上明らかな昭和三九年一〇月一三日から、被告日本通運は訴状送達の翌日であることが記録上推認される同年九月一日から各完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金

(二)  その余の原告らにつき、それぞれ、

1  亡俊吉の逸失利益のうち四万七〇〇三円

2  右原告らの慰謝料一万五〇〇〇円

3  右合計六万二〇〇三円に対する被告名知は前記昭和三九年一〇月一三日から、被告日本通運は前記同年九月一日から各完済まで前記年五分の割合による遅延損害金

の支払を求める限度で理由があるから、これを認容し、その余は理由がないから棄却すべきである。

一二、よつて、民訴法八九条、九二条、九三条、一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 平田孝 安国種彦 鷺岡康雄)

別表一 (亡阿部俊吉の名寄食肉協同組合から得ることのできた給与)

<省略>

別表二 (亡阿部俊吉の生活費年額内訳)

<省略>

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